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2004年9月27日(月)
陰徳と陽徳
 陰徳と陽徳という二つの言葉をご存知だろうか?これは仏教用語であり、一言で言うと、陰徳とは「人の目に見えない徳」のことであり、陽徳とは「人の目に見える徳」のことである。この二つは同じように見えてまるで違うものなので、その違いを知っておくといいと思う。

 分かりやすく、また具体例を挙げてみよう。神社の改修工事や祭の維持費を集めるために、寄付金を納めているとする。あなたはそれにいくらかのお金を納める。すると大抵、神社の壁や祭の立て看板などに「○○様 △万円」という、寄付金に協力してくれた人の名前が飾られる。あるいは、ある金持ちが自らのイメージアップのために、社会施設に献金し、またそれを宣伝したとする。あるいは、朝、家の前の道路を掃除し、近所の人から「奥さん、感心ねぇ。すごいわぁ」と言われたとする。これらの例は程度の差はあれ、全て陽徳とみなされる。冒頭に戻って、陽徳とは、つまり「人の目にみえるようないいことをする」という行為のことを指している。

 次に、陰徳について具体的に考えてみよう。例えば、部活をしていて誰もいない朝早くから出てきて、体育館の床掃除をしたり、練習をしたとする。あるいは、自分の名前を伏せて、研究機関に寄付をしたとする。あるいは、「町行く人が気持ちいいように」と朝早く起きて、人知れずゴミ拾いをしたとする。これらの行為は「陰徳を積んだ」と言える。ポイントは人に知られないところで、いいことをするということだ。こういう場合も陰徳になる。良いことをたくさんして、その中の一部が世間に知れたという場合は、差し引きまだ+が残っているから徳積みが出来た(=陰徳)ということになる。

 これら2つの違いとはなんだろう?何となく想像できるだろうと思うが、陽徳は陰徳に比べて、徳積みという点で効果が少ないのだ。いいことをしても、その分自分の対外的な評価が上がることに使われているから当たり前だ。+と−で差し引き−ということも有りうる。少ない投資で効果が上がったんだからいいではないかと考える人もいるだろうが、宣伝費分が消費されない分、陰徳のほうが実は効果が高い。

 長い目でみれば、自分が持っているものに必ず行き着く。流行などで一時的に評価が上がっても、長い年月で考えれば流行は冷めるし、最後には自分がどれだけ本当の実力をつけているかということだけしか残らない。

 世の一流のスポーツ選手や秀才と言われる人たちは、人知れず陰徳を積んできているものである。人が遊んでいる中で、人知れずバットを振ったり、勉強をしたりすること。それらはその人の財産となっていくものである。そういう人は見えないところでどんどん財産を積んでいってるから、どんな状況になろうとも強い。人からどういう評価を受けようが気にせず、自分の実力を着々とつけていく人は強い。

 陰徳がなぜ良いかというと、それはその行為が神様に通じるからだ。人の知れないところで良い行いをするとき、人は神様を身近に感じることができる。「人がみていなくても、神様はきっとみていて下さるはずだ」と自然に思いたくなる。自分と神様だけの秘密。それはその人の宝物だと思う。もちろんよい行いの秘密だ。人生の中でそういう体験を数多く積むことは、人間にとって尊い、有意義な生き方だと私は思う。

 逆に、神様にしか分からない悪いことをしていると、「神様なんている訳がない」と自然にそういう風に思ってしまう。自らがそのような選択をしているのだ。どちらが得か、それは長い目で物事を考えることのできる人には明らかであろう。



2004年4月15日(木)
遺伝子組み換え作物について

 今回は遺伝子組み換え食物について考えていこう。遺伝子組み換えとはある生物が持っている遺伝子(DNA)を別の生物の遺伝子の中に直接埋め込む技術である。従来行われていた交配と何が違うかというと、@交配はオスとメス(花粉とめしべ)を掛け合わせ、受精(受粉)させるという過程が必要だが、遺伝子組み換えではそれがいらないこと、A遺伝子組み換えでは、かけ離れた種族同士の遺伝子であっても組み込むことができるという点などが上げられるだろう(具体的にはバクテリアの遺伝子を動物に組み込むなども遺伝子組み換えでは可能だ)。このように遺伝子組み換えの技術というのは、本来自然が何万年という長い時間をかけておこなう遺伝子組み換えという過程を、人間の思いつくまま好きな遺伝子を瞬時に組み込むことができるという技術で、使い方をあやまれば非常に危険なものになる技術であるといえるだろう。

 より具体的にみていこう。遺伝子組み換え作物には様々なものがあり、有名なものを上げると、殺虫毒素を出す遺伝子を組み込まれたとうもろこしや、除草剤耐性遺伝子を組み込まれた大豆などがある。
 遺伝子組み換えとうもろこしは、土中にいる細菌(Bacillus)が持つ「昆虫を殺す毒素」の遺伝子をとうもろこしに組み込んだもので、それを食べた害虫は死んでしまう。
 遺伝子組み換え大豆は、アメリカのモンサント社が販売している「ラウンドアップ」という強力な除草剤に対して抵抗を持つように作られたもので、雑草が生えていても「ラウンドアップ」をまけば、雑草は死んでくれるがその大豆は生き残る、という作物である。それらの良し悪しは後で判断するとして、まずはそれが生まれた背景について簡単にみてみようと思う。

 遺伝子組み換え作物はアメリカで生まれた作物である。アメリカの農法というのは合理主義を徹底していく農法で、大規模な農地に大型機械を導入し、日本の農地の数十倍〜数百倍という面積を一つの農家が耕していく。大きな土地を耕すため、農作物につく害虫や農地に生えてくる雑草は、日本に比べより大きな問題になっていた。その問題に対処するための手段として、遺伝子組み換え作物が登場してきたのである。農家にしてみれば、遺伝子組み換えとうもろこしを蒔いておけば、食べた害虫が死んでくれるので農薬代が節約されるし、余計な手間もかからない。遺伝子組み換え大豆にしておけば雑草に悩まされていたのが強力な除草剤をまいておくだけでいいので煩わしい手間を一切はぶくことができる。それらの話は実に魅力的なものであると思う。事実その農法はアメリカの隅々にまで広がって行っているのである。

 ほとんどの遺伝子組み換え作物の種はF1と呼ばれる種で、一世代だけで終わり、実を結ぶことがないように遺伝子操作されている。これによって農家は種を取ることができず、毎年その種を「モンサント社」という会社から買わなくてはいけないような仕組みとなっている。

 余談であるが、アメリカでは、遺伝子組み換えの種を買ってはいないのに、遺伝子組み換え作物を作付けしてるといって、モンサント社から農家が訴えられることがあるという。その遺伝子を調べてみると実際に遺伝子組み換えのものになっているという。種を買ってはいないのにどうしたことか?それは近くの畑の遺伝子組み換え大豆の花粉が風に乗ってやってきて、在来のとうもろこしと受粉をするからだという。遺伝子組み換え作物は今も刻一刻と広がっていることになる。ちなみに、その裁判の判決は、モンサント社の勝訴であることがほとんどであるという。特許法に基づく判決なのであろうが、風はどんなところにも分け隔てなく吹くものであるから、その判決はかなり酷である。

 このように、遺伝子組み換え作物は、人間の都合によって作られたものがほとんどであり、その安全性がどうかということは、元々ほとんど考慮に入れられていないものである。遺伝子組み換え作物を販売する企業から、後から付けたように、遺伝子組み換えの作物は安全であるという実験結果が提出されてはいるが、それらは全て数年という短期間の観察結果でしかない。遺伝子組み換えという作物を食べる世代は、我々が人類史上初めてなのである。何十年という期間や何世代という長い時間でみたときに果たして安全といえるのかは、まだ誰もわからない。日本の農林水産省も遺伝子組み換えの作物は安全であるという見解を発表しているが、それは企業側からのデータを基にした実験結果がほとんどで、充分な検討がされているとはいえないものだという。

 私の意見を言わせてもらうと、害虫が食べると死んでしまうような毒が入っているとうもろこしを食べたくはないし、除草剤をかけても死なないような大豆も食べたくはない。農家のご都合主義や企業の経営戦略によって作られた作物を進んで食べたいとは思わない。食べ物はやはり自然に育まれたもので、無農薬のものが一番いいと思う。身が赤くなるような色素を飼料に混ぜられ養魚場で丸々と育てられたサーモンより、何千kmという旅を経て自然に育まれた北海道産鮭のほうが僕は好きだ。スーパーなどではつい、実つきがよくて、虫食いのない立派な野菜を選んでしまうが、そういう作物は農薬を使って栽培されているものがほとんどである。無農薬のものはおいしいので、まず虫が食べているはずであり、そういうものは、安全だと虫がまず毒見をしているようなもので、虫食いがあっても、色が鮮やかではなくてもそういうものこそ本当は選ばないといけないのだと思う。昔の野菜とは全部そうだったはずだ。見た目が立派だからという基準だけで自分の体を形作る材料である食物を選んでいると、いつか体にしっぺ返しがくるような気がする。自然との調和が取れていない食物からは、自然との調和の取れていない人体が作られるのはしごく当たり前のような気がする。医食同源とはとても重い言葉であろう。見せ掛けだけをよくしている作物よりも、中の中までほんものである作物を食べていきたいと思う。



2004年4月10日(土)
マニフェスト

 選挙の時期になると最近よくマニフェストという言葉を聞く。以前は政策を前面に出して選挙戦を戦うのではなく、知名度や、あの訳のわからない「名前を連呼するだけ」の選挙戦だったので、それに比べるとはるかにいい兆しだと思う。そんな選挙戦を行っていた(今もあまり変わりばえはしないが…)のは世界広しといえども日本だけだろう。

 日本にはまだまだ民主主義が根付いていないのではないかと思う。欧米諸国は市民革命によって、市民1人1人が運動を起こし民主主義を勝ち取ってきた。しかし、日本の民主主義は戦後アメリカによって、与えられたものであって、勝ち取ったというものではない。日本はどちらかというとまだまだ官主主義に近いのだと思う。市民自らが政府や役人を動かして政治や制度を変えていくというのが本当の民主主義であろう。

 ちょっと話が横道にそれてしまった…。気を取り直して、マニフェストについて考えてみたいと思う。選挙戦ではマニフェストが各党毎に掲げられる。「こういう政策をやります」「こういう構造改革をやります」「財政債務を軽減するためにこういう改革をやります」といろいろな政策目標が掲げられる。しかし、その政策は選挙戦だけのものに終わってないだろうか?そんな気がしてならない。喉元過ぎれば熱さ忘れるではないが、そんなことでは日本はいつまで経ってもよくならないように思う。「一体何をやっているのか?何にもならないではないか」という気さえする。「政治家に嘘は付きもの」という風な風潮になるようでは困る。嘘を付くような人に政治家をやってほしくはない。

 そこで、ある提案が僕にはある。マニフェストを掲げて政権を握った党はそのマニフェストが一体どれだけ、実行できたかを次の選挙戦の前に厳密にチェックを受けるというのはどうであろうか。実行できないようなものをマニフェストに掲げてはいけない。嘘を付いてはいけないというのは、幼稚園児でも知っている当たり前のことである。

 具体的には、政権を取った党の中で、そのマニフェストを実行する責任者(グループ)のようなものをそれぞれ決めて、その実行ができなかったら、選挙戦に入る前に「マニフェストの評価」によって、その政治家(グループ)は落とされる。こういうシステムはどうだろうか?選挙ではなくて、評価によって落とされる。つまり選挙戦に参加する資格を失う。その評価は客観的でなければならないので、第三者機関を作ってそれを行う。嘘を付くような人が政治家になってはいけないのである。口先だけの政治家は要らない、有言実行(不言実行)する政治家しか要らない。国民のその意識をアピールするには、それが一番いいシステムではないか。

 まさに政治家生命を掛けて政策(マニフェスト)の実行に取り組んでもらいたいと願う。


2004年2月6日(金)
自爆テロについて

 最近ニュースなどで、よく自爆テロという言葉を聞く。日本の神風特攻隊のようなものだ。こういう精神は日本人にしかないものと思っていたが、そうではないらしい。自爆テロと神風特攻隊には共通しているものがある。独自の精神性というか、価値観を持っているということだ。逆に言えば、それがなければ自分の命を犠牲にするなんていうことはできないであろう。

 その価値観とは、自爆テロで言えば、「聖戦のために死ねば英雄として天国へ迎えられる」「天国で100人の美女を与えられる」(など)…という信念であり、神風特攻隊で言えば、「お国のために自らを犠牲に捧げる」という意識、あるいはそうせざるをえないという状況である。要するに精神的なバックボーンが共通しているものだ。

 しかし、これらの考えは本当に正しいものなのだろうか?自爆テロの場合を考えてみることにする。自爆テロというのは、テロという名前の通り、やっていることは普通のテロとなんらかわらないものだ。テロ行為によって、殺されたり、家族を奪われた人が出てくる。聖戦の為に自らを犠牲にするという信念によって、テロを行ったからといって、テロによって家族を失ったものや死んだ本人は、「聖戦の為なんだから仕方ない」という風に思うだろうか?そうは思わないだろう。家族は悲しみにくれ、こんな目に合わせる自爆テロ犯に対して強い怒り(そういう言葉だけでは表せないだろう)を向けるだろう。その思いはテロを行った人間を取り巻き、復習を果たそうとするだろう。その犯人がもし目の前に居たとしたら、1,2発殴ってやりたい衝動にかられるに違いない。実際に犯人が目の前に居ないとしても、そういう思いは変わらない。そういうことを犯人を取り巻く「思い」だという風に考えてもいい。

 それでも、「聖戦の為に死んだ人間は天国に行ける」と神様は言うだろうか?自分の家族を殺した犯人が天国に行けるとしたら、残された家族はどれだけやりきれない思いをするだろうか。あなたはそんな神を信じるだろうか?神様が一方のみに利益を与えて、他方は無視するというようなことをするとは、私にはとうてい思えない。またそんな神なら私は信じない。

 イスラム教を信じる人々の大部分は平和的な考え方の持ち主だろうと私は思う。中には宗派が違うからといって、他を排斥したりする人がいるだろうが、その人はその狭い了見は自分自身のもので、神様のものではないということを知らなければならない。そうではないと他から反発を買うだけになる。ある人々だけを幸せにするという考え方は別のグループから反感を買う恐れのあるもので、それは本当のものではない。神の名を借りて語っているだけだ。

 他を犠牲にして、自分だけが天国に行けるなんてそんな都合のいいことはないと私は思う。くどいようだが、聖戦という大儀明文を掲げて人を不幸にして、それで自分だけが天国に行けるなんて、世の中はそんな甘いものではない。天国に行ける条件、それは多くの人を幸せにすることだと思う。そういう人であるならば誰でも心からの祝福を送るだろう。

 自爆テロで自らを犠牲にしても、それは社会に迷惑をかけているだけで、決して人を幸福にすることではない。憎しみの連鎖は憎しみを生み、暴力の連鎖は暴力を生むだけだ。同じ考えを持ち続けているならば、それは決して終わることがない。イスラム教の指導者もそのことにちゃんと言及しなければならないと思う。聖戦の為に自らを犠牲にしても天国などへは行けないということを。第一「聖戦」という言葉自体が一方の立場からのみみた、偏ったものの考え方ではないだろうか。


2004年1月20日(月)
目にみえないもの
 浜田省吾さんの歌詞の中に、こういう詞がある。「手に入れた形あるもの、やがて失うのに、人はそれを夢と名づけ、迷いの中さまよう…」。(曲名:家路)
これを聞いたときに僕は「うーん」と唸ってしまった。なんという切り口!まさにそのとうりだと鳥肌が立った。「手に入れた形あるものは、やがて失うことになる…」。浜田さんがいう「やがて」とは何を指しているのか、僕には分からなかったが、僕はそれを「あの世に行くとき」と解釈してその歌詞を聴いた。この世で手に入れた形のあるものは、あの世へ行くときに全て置いていかなければならない…。これはまぎれもない事実だと思う…。このことを考える、考えないに関わらず…。僕はあの世の存在は当たり前のように信じている。

 あの世へ渡るときに、向こうの世界へ持っていけるものは何か?これは浜田さんがいうように、形のあるもの以外だと僕も思う。つまり目に見えないもののみということになる。目に見えないものとは何だろう。現代の人はこういう話は避けがちになるものだが、ここでは敢えてその問題に真正面から向き合ってみることにする。

 見えないものとは何かを自分なりに考えてみた。「目にみえないもの」、それは「この世でその人が行ってきた行い」という風に集約されるのではないだろうか。行いは目に見えるような形ではないが、目にみえない形としてちゃんと存在していると僕は思う。人から感謝を受ければ、それが目に見えないものとなってその人を包み、逆に人から恨みを買うようなことをすれば、それも同じようにその人を取り巻いている。こう考えるのが自然なような気がする。

 もう少し具体的にいうと、典型的な例で恐縮だが…。横断歩道を渡ろうするが、なかなか渡れないおばあちゃんがいるとする。それを見ていた小学生がおばあちゃんの手を引いて、道の向こうへ渡るのを手伝ってあげたとする。おばあちゃんはその子に対して「ありがとう」という暖かい思いを持ち、またそれが感謝の言葉となって現れてくると思うが、ありがとうという「心」はおばあちゃんの心の中だけに留まるものではないと僕は思う。その心は、感謝することをしてくれた人の元へ必ず行こうとする性質のものではないだろうか。つまりおばあちゃんの心の中だけに留まるのではなく、その子の元へ伝わっていくものだろう。おばあちゃんもそれを望んでいるに違いない。それが目に見えない形となって小学生を包むとしてもなんら不思議はない。現代の科学では解明されていないだけだろう。昔からよくいわれる「徳」というやつだ。

 逆に、人から恨まれるようなことをした場合はどうだろう。例えば、泥棒に入るとする。手当たりしだい金目のものを盗み、部屋にはほとんど何も残っていなかったとする。盗まれた家の人はどう思うだろうか。必ず恨み、敵討ちなどの思いを持っているだろう。その思いはどこへ行く性質のものか。それは泥棒へ向けられるものだ。それ以外には考えられない。つまり恨みや「この野郎!」という思いは泥棒に入った人へ伝わっていくものになる。泥棒に入られた人の心の中だけに留まるものではなくて、泥棒に入った人へ伝わっていき、その人を取り巻くものだと思う。相手が誰だか分からなくてもそんなことは関係ない。泥棒に入った人は一人なんだから、それはちゃんとその人へ伝わっていくだろう。神様はちゃんとみていらっしゃる(と僕は信じる)。

 恨みや復讐心など、そういう思いを受ければ人間の健康上、良いとはいえないだろうということは容易に想像ができる(少なくともいいことはないはずだ)。病気にかかったり、不幸が襲ってくるかも知れない。悪いことをする人は「そんなことは誰が信じるか」「あの世なんてありゃしねーんだよ」「この世で面白、おかしく暮らせればそれでいいのさ」という刹那的な考えでそういうことをするのだろうと思うが、もしあの世の存在を信じていたら悪いことはできにくいだろうから、「あの世なんてない」という考えになるのはそれは当然なことだろうとは思う。しかし、本当にあの世はないのだろうか?信じる、信じないの問題ではなくて、実際にあるかどうかという問題だ。実際にあの世があるなら、信じない人もあの世にいかなければならない。ひょっとすると「あの世はない」と考えること自体が危険なことなのかも知れない。あの世がないという考えが広まれば、人から恨みを買うようなことをしても気にも留めない人が増え、この世はもっと悲惨なものになるだろう。仏教がこの世に必要だったのは、この危険な考えを抑制するためという目的が大きかったのではないかと僕は考える。

 現在の唯物的な観点からものを捉える科学では、目に見えないものは解明できないので否定しがちになるが、人間の「心」が持つ力についてはもっと研究をされなければならない分野だという風に思う。植物を育てる場合、愛情を持って育てると植物の生育が違うという報告や、出来た収穫物の味も甘くておいしいという報告がある。目にみえないものの大切さについては改めて見直されていいように思う。これは20世紀の科学が残してきた宿題で、21世紀の今日、段々見直されるようになってきている問題だと感じている。

 ここで冒頭の浜田省吾さんの歌詞に戻り、僕が感じる解釈を述べてみる。「手に入れた形あるもの、やがて失うのに、人はそれを夢と名づけ、迷いの中さまよう…」。

 この世で物質的なものを追い求め、たとえ高価なコレクションをたくさんしたとしても、あの世へ行くときにはそれらは置いていかなければならない。自分の身一つでいかなければならない。そのときに大切なのは唯一つ、目にみえないものをどれだけ身にまとっているか。いいことも、悪いことも。唯、それのみが問題になる。例えこの世でたくさんのお金を稼いだとしても、そのお金はあの世へは持っていけない。そのお金を世のため人のために役立つことに使い、目に見えない徳という形に変えればそれはあの世へ持っていくことができる。そのお金を得る方法が人をだまして稼いだものだとすれば、それはまさしく愚の骨頂で、目先のことしかみえておらず、後で損をすることに気がついていないということになる。

 僕はこういう風に解釈する。


2004年
 9月27日 「陰徳と陽徳」
 4月15日 「遺伝子組み換え作物について」
 4月10日 「マニフェスト」
 2月6日  「自爆テロについて」
 1月20日 「目にみえないもの」


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